人生体験ストーリー 第1話

こちらを開いてくださりありがとうございます。

私は看護師をしており、夜勤ありの病棟で7年勤務し、日勤のみの看護師に転職しました。

現在週3日のパートでゆったり勤務をしており、副業もしているので十分生活できています。

フルタイムで働いていた頃は激務とリスクに見合わない対価、自分の健康はおざなり、働き方に日々疑問を感じていました。

家族のために、患者さんのために、職場のために。

と思い日々頑張っていましたが、自分の幸せのために生きても良いんじゃないかと思い働き方をガラッと変え副業を始めました。

私は今、毎日幸せを実感しながら生活しています。

あなたはいかがでしょうか。

自分に無理をしていないですか?そろそろ自分のために生きても良いのではないのでしょうか?

いきなり言われても…と戸惑うかもしれません。

まずは私のことをあなたに知っていただきたいので、自己紹介を書きました。ぜひ読んでください。

看護師になったきっかけ

私は小さな頃からお父さんが大好きで、お父さんがどこに行く時も着いていく、いわゆるお父さんっこでした。お父さんがお手洗いに行く時も…。

お父さんが知らないうちに出かけたときは号泣。

携帯電話が普及し、父が携帯電話を持つようになると毎日「何時に帰ってくるの?」と電話をかけていました。

そんな大好きなお父さんに物心ついた時から「看護師になるんだよ」と言われ続けていました。

当時おばあちゃんが入院しており、お父さんに連れられて毎週病院に面会に行っていました。

その時の病院の印象は気味の悪い異世界。

照明が薄暗くて、真っ白な殺風景な部屋。車いすや寝たきりのお年寄りが多く、クリーム色のカーテンで隣の人と仕切られ、独特なニオイがする、普段私が暮らしている世界とはかけ離れたところに感じていました。

面会の時にたまに看護師を見ることがありましたが、ただ淡々と働いている「病院で働いている人」というイメージ。その姿をみて「看護師になりたい」とは思ったことはありませんでした。

大好きなお父さんでしたが、何度も「看護師になるんだよ」と言う父に嫌気がさして保育園の卒園文集にある将来の夢には「ケーキやさん」と書きました。

「ケーキやさん」と見たお父さんは少し悲しそうな顔をしていたのを覚えています。そして「はるかは看護師になるんだもんな」と言われました。

悲しそうなお父さんを見て「大好きなお父さんを傷つけてしまった」と思い私の心が傷つきました。

お父さんを傷つけたくない、私も傷つきたくない、お父さんがなってほしいと思っている看護師は素敵な職業なんだ、私は看護師になるんだと幼いながらに思いました。

看護師になる!とさらに決意を固めた

私が小学校1年生のときに弟が生まれました。

それまでは私が可愛がられることが多かったのに、弟が生まれて激変。

お父さんに着いていくのはまずは弟優先。お父さんが運転する車に乗るときは、お父さんの膝の上は私の場所だったのですが、いつのまにか弟のポジションになっていました。

知らないうちにお父さんが出かけると寂しくて号泣していた私でしたが、運転席のお父さんの膝の上に弟が乗って出かけたところを見ると、寂しさと悔しさで大号泣でした。

お父さんに自分を見ていてほしい、褒めてほしい、看護師になったらきっとたくさん喜んでもらえる。

それからは将来の夢は?と聞かれるたびに「看護師」と答えていました。

看護師になった理由はもうひとつあります。

私には幼いころから大好きなひとがもう一人いました。

いとこのお姉ちゃんです。

賢くて、優しくて、スポーツもできて、器量も良い。週末になるとお姉ちゃんと遊ぶために、いとこの家に泊まりに行きました。

そのお姉ちゃんは看護師になりました。

大好きなお父さんがなってほしいと思っている看護師、そして大好きないとこのお姉ちゃんは看護師になっている。

私はやっぱり看護師になるんだ!!とさらに強い決意が生まれました。

看護師の職業以外になりたいなんて思いませんでしたし、選択しようと思いませんでした。

看護学生で得たこと。嫌でも我慢することと一生の友達

幼いころからの「看護師になる!」という夢を持ち続け、高校を卒業し看護学生になりました。

実家は田舎で通うにもとても遠く、看護学生になったタイミングで1人暮らしを始めました。

試練が待っていました…。

つらかった看護学生の実習

看護学生時代は目まぐるしい日々でした。

友達と遊びたい、バイトもしたい、そして迫ってくる課題や実習に追われる日々。

最初の実習記録はパソコン使用可能だったのですが、看護記録のデータが入ったUSB紛失事件が学内で起こり、それ以降個人情報保護のために記録は全て手書き。

コピペで終わる作業も全部手書き。

USB紛失・データ漏洩したかもしれない再発防止策が、「USBを使わないように手書きの記録にする」なんて。

「問題そこ?」

と思いつつも先生には逆らえません。

意見を言ったら悪い評価になるんじゃないか。目をつけられたら違うことにも口を出されるんじゃないか。荒波はたてないでおこう。看護師になれなくなる。

と思い従うしかありませんでした。

記録にとてつもない時間がかかり、実習期間中、寝る頃にはスズメのちゅんちゅんという鳴き声と朝日を迎えて数時間眠るだけでした。

睡眠不足で日中は眠たい気持ちを抑え、時々ボーっとしながら病棟で実習。

患者の健康のために看護をするといいつつ自分は不健康だなと思い、少し「看護師」というものに違和感を覚えました。

実習先の病棟では病棟の看護師が学生のフォローをしてくれるのですが、その看護師が「怖い」「厳しい」「優しい」の違いによって実習の疲労感も大きく変わりました。

あの病棟の○○さんは怖いというウワサを聞いてからその病棟の実習に向かう時は、緊張しっぱなしです。

看護師って優しいのかと期待していましたが、全然そんなことありませんでした。

記録や実習がどんなに大変でつらくても「私は看護師になるんだ」という根性だけは強くありました。

ここで挫折したら幼いころからの「看護師になる」という夢が叶えられなくなる。

自分を否定することになるのは嫌だ、我慢してでも乗り越えないといけないと。

と思っていました。

一生の友達ができる

進学した地域は地方都市。ビルの高さと街の人の多さに驚き、1時間に何本も通るバスと電車に感動していました。

(私の住んでいたところはバスは1時間に1本か2本でした。)

同級生はほとんど県内出身。私のように田舎から出てきた人は数名でした。

私は田舎出身で方言があり(当時は方言と自覚していませんでしたが)しゃべった時には「何そのしゃべり方?わざと?」と言われショックを受けました。

そこの地域ならではの気の強さと方言もあり、私の住んでいた地域とは人種が違うと思いました。

最初は「1人暮らしさみしい…都会の人こわい…実家が恋しい…」と思いながら日々過ごしていましたが、田舎者の私を受け入れてくれる友人ができました。

看護学科は「看護師になる」という同じ目標を持った人の集まりです。

授業も実習も課題もぜんぶ一緒。

学内ではほとんど一緒に時間を過ごしており、話題・悩みも共有することが多く休みの日も一緒に遊んでいました。

つらい実習を共に乗り越えて、学内のよく分からない規則に内心は反抗していたこともあり話題に事欠きません。

卒業し就職先が違っても、環境やライフスタイル、住む地域が変わった今でも連絡をとって会っています。

就職活動

看護師国家試験は2月。その前年の夏に就職活動。

先生は付属の病院に就職しろって言うし、他の病院について調べてないし。どうしても付属の病院で働きたいというわけでもないけど、別に良いかなと思っていました。

学生全員に用紙が配られ、就職を希望する病院を記入し先生に提出します。

他の病院で働くと希望を書いた生徒には、何回・何時間もかけて先生との面談がされていました。

それを横目に他の病院に就職するって大変そうだな、他の病院について調べるのはやめておこうと思い、付属の病院に希望を出しました。

働きたい病棟は第一希望から第三希望まで書ける枠があったのですが、私の夢は看護師になることだったのでどの科で働きたいという思いは特にありませんでした。

「外科って大変そうだな、内科にしよ」

「血液内科って人気があるんだ、そこにしよ」

そんな理由で第一希望は血液内科と書きました。

後に採用結果が届き、無事採用されました。

試験に合格すれば4月からその病院で働くことができます。

看護師になるという夢に近づいている実感がわきました。

それからは国家試験合格のために過去問を解いて、解説書を読んで。

友達と夜な夜なファミレスで勉強をしていました。

いよいよ国家試験

国家試験前日はゲン担ぎで豚カツを食べに行きました。

国家試験当日は学生全員、朝早くからバスで試験会場へ。

復習している人や緊張して顔色が悪い人、朝ご飯を食べている人、眠っている人、それぞれの時間を過ごしながら向かいました。

いつもの顔ぶれで試験会場に向かい、試験を受ける席も近く落ち着いた気持ちで試験を受けることができました。

3月。試験の合否結果が分かる当日。

ネットでも結果は分かりますが、気持ちが抑えられず役所の掲示板に見に行きました。

自分の受験番号を探して…無事合格!

お父さんに報告し、喜んでもらえてとても嬉しかったです。今までの努力が報われた気がしました。

合格して嬉しかった気持ちと、複雑な感情も混じっていました。

兄の死と自分の後悔。理想の看護師とは

翌年に国家試験を控えた年末、実家に帰省をしました。

私には6つ年上の兄がいて、とても優しくて、繊細な人でした。

大晦日、自ら命を絶ちました。

お兄ちゃんの悩み

お兄ちゃんは大学卒業後「資格を取るから」と自宅で過ごしていました。

当時は「そっかぁ」くらいにしか思っていなかったのですが、自宅で過ごす本当の理由を私に打ち明けてくれたのは、大学卒業してから何年も経った後でした。

お兄ちゃんは小学校高学年の頃に吃音(どもり)を指摘されてからずっとコンプレックスだったと私に打ち明けました。

「就職して電話をとるときにどもったらどうしようって思う、言葉が出んかったら仕事ができん。」

と話していました。

確かに話し出す時にどもることはあるけど、お兄ちゃんは仲の良い友人も恋人もいてコミュニケーションをとれているのに、何がそんなに不安なのかよく分かりませんでした。

「言われることを予想しておけば答えがスムーズになるんやない?」と私は言ってその時の会話は終わりました。

実家に帰省するたびにお兄ちゃんと会話をしていましたが、吃音について話すことも時々ありました。

「吃音専門の病院に言ったけど小さい頃やないと治せんって言われた。」

「優しく話を聞いてくれるいい先生に出会った、お金はいらんって言われた。」

「調べたら吃音の人は脳に障害があるって、脳に障害がある人は残酷な事件を起こすってテレビで観てこわいんやけど。」

最初は「そうか」と話しを聞いていましたが、最後のあたりはちょっとお兄ちゃんおかしくないかと思いながらも「大丈夫やろ」としか言えませんでした。

最後に私の部屋に訪れた日

12月、「そっちで資格試験があるから泊まらせてほしい」とお兄ちゃんから連絡があり、私が1人暮らしをしている部屋に泊まりました。

試験が終わった夜はお兄ちゃんから「お酒を飲もう」としきりに何度も言われました。

私は翌日授業があり課題があるのと、早く寝たいと思い断りました。

それから看護師試験ももうすぐで、働く病院も決めていてプレッシャーもストレスもあるのに、お兄ちゃんはずっと家にいて働きもしない、何をしてるんだとお兄ちゃんに苛立つようになりました。

お兄ちゃんの死

年末、私は帰省しましたがお兄ちゃんとはろくに会話をしませんでした。

お兄ちゃんとは「帰ってきたよ」「おやすみ」というそっけない会話をしただけでした。

大晦日。お兄ちゃんは息を引き取っていました。

受け入れたくない気持ちと
もうここにはいないんだという悲しみがあって。

泣き止まない私を見てお母さんに
「お兄ちゃんは楽になったんやで」と泣きながら声をかけられました。

何でそんなこと言えるのか分からない。
泣いているお父さん、お母さんの後ろ姿を見てこんなに悲しませてお兄ちゃんを許せないという怒りの感情が溢れてきて。

遺書なんてふざけた遺書でした。
何で死んだか分からない、遺された私たち家族に何もメッセージがない。

でも、なんとなく、何でそうなったのか分かりたくないのに分かる自分もいて。

悔しい気持ちと自分を責める気持ちが残るようになりました。

家族の中で私が一番悩んでいる吃音について話を聞いていたんじゃないか

あの時に違う関わり方をすれば救えたんじゃないか

看護学生だったのに解決できなかったのか

私の部屋に泊まりにきたときは最期に飲んで語らいたかったんじゃないか

私がころしちゃったんじゃないだろうか

毎日ぐるぐる頭の中を回っていました。

お兄ちゃんに心臓マッサージをして生き返る、棺桶で眠っていたお兄ちゃんが目を覚ます、キッチンでお兄ちゃんが何かを作っている後ろ姿、何かしゃべって笑っている顔。

そんな夢を見ることもありました。

起きると夢だったと気づき、お兄ちゃんは死んだんだと現実を突きつけられて暗闇にひとりいるような気分でした。

でも、もう1回眠ったら夢だけでもお兄ちゃんに会えるんじゃないかと期待して眠ることもありました。

年数が経つにつれて後悔と自責の思いが出てくる回数は減りました。

そして「お兄ちゃんの分も生きなきゃ、頑張らないと」と強く思うようになりました。

「なぜ看護師になりたいのか」聞かれると苦しい

「なんで看護師になりたいと思ったの?」

学生のころから今まで何度も何度も聞かれました。

聞かれたときは「おばあちゃんが入院していた時に看護師を見てなりたいと思った」と当たり障りない答えをしてきました。

正直言うとこの質問に答えるのが今でもとても苦しいです。

私の理想の看護師像は「困っている人に手を差し伸べたい、救いたい」と思った人が看護師になり、「命を救う」「穏やかな最期を迎えるサポートをする」ものだと思っています。

幼いころから父に褒められたい、認められたい気持ちが強くて看護師になろうと思い、お兄ちゃんの命も救えなかった自分が看護師であることに、ギャップを感じて他人にどう思われるのか自分を表現するのがこわいと思ってきました。

当時のお兄ちゃんの記憶が頭の中を駆けめぐって、後悔と自責の思いがどっと押し寄せてくることがありました。

時間が解決していたわけではなく、自分で当時の事実・感情にただ蓋をしていただけだったんだ。

そう思い知らされました。

ただ、前と変わったことは自分の気持ちをごまかすことなく、逃げることなく、蓋をせず。

そのままの気持ちに自分で気づき認められるようになりました。

お兄ちゃんが亡くなって悲しい。あの頃を後悔している。戻れることなら戻りたい。自分を責める気持ちもある。

看護師になったきっかけはお父さんに認められたかった、褒められたかったから。

ありのままの感情を受け入れることで、自分を否定することなく今を生きることができています。

つらすぎて泣いた新人看護師時代

4月。いよいよ病棟での勤務。

病院のすぐ隣に職員用の寮があり、家賃も安く通勤時間もかからないので入りました。

血液内科への希望が通り、同期は6人でした。

病棟で勤務

それはそれはつらい新人時代でした。

業務が大変なのはもちろんですが、何よりもつらいのは人間関係。

優しい先輩看護師もいますが、こわい先輩看護師もいます。

前日の夕方に明日担当の部屋割りがホワイトボードに貼られるのですが、一番気になったのは指導してくれる看護師は誰か。

苦手な先輩看護師だと「憂うつだなあ…」と思いながら眠り、朝を迎えていました。

勤務開始時間とともに「おはようございます。情報収集とスケジュールの確認お願いします。」と声をかけるのですが、「何か用?」「今話しかけるの?」という感じの嫌そうな顔。

新人看護師は自主性が大事なので積極的に声をかけないといけないと言われたのですが、声をかけるのも嫌になる。

そして勤務時間終了後に先輩の指導があるので、帰る時間は遅くなる。

もっと話しかけやすい雰囲気を作れば良いのに、指導は端的に的確にすれば良いのに。とモヤモヤしていました。

指導されて一番泣いたことは今でも忘れられないのですが、苦手な先輩看護師が私の指導担当の日。電子カルテの入力でした。

血糖測定をしたら料金をとるために血糖測定の処置項目をクリックするのですが、加えてインスリン注射をした場合はインスリン注射の料金もとらないといけませんでした。

昼食前、担当していた患者さんに血糖測定とインスリン注射をし、先輩看護師に「コストとるからカルテはクリックせずにそのままにしておいて」とさらっと言われました。

夕方、カルテ入力をしていた際に血糖測定の処置項目にうっかりクリックをしてしまいました。

勤務時間が終わり、先輩看護師の指導が始まりました。

「インスリンのコストなんだけど…」と先輩看護師が言葉を発した時に(あっ!クリックしちゃったんだ!!)と気づきました。

先輩看護師がカルテを見て気づき「え?クリックしないでって言ったよね??なんでクリックしたの?」

私は(カルテに入力したときにクリックしないでと言われたことを忘れてた…いつもの習慣でクリックしたなんて言ったらどんな反応されるんだろう、この人こわいし…)と思い何も言えませんでした。

「ねぇ何で?」

「何でクリックしたの?」

「何でクリックしたんですかぁ~?」

「私クリックしたって言ったよね??」

と言い方を変えて何十回も聞いてくる先輩がこわくて何も言えませんでした。

こわくてどうしたら良いのか分からず、取り返しのつかないことしたんだと思い涙が溢れました。涙でマスクがびちょびちょ。

すると先輩の攻撃は止まり「まあ、クリックしてもコストとる方法はあるんだけど」と言いながら、その方法を教えてくれました。

心の中で(え…あるんだ…)と思いました。

そして指導は終了。

つらくてお母さんに電話

指導でこわかったのと、どうしたら良いのか分からないのと、悔しい気持ちで整理がつかず、お母さんに電話をしました。

お母さんの「もしもし?」を聞いた時には涙がどっと溢れました。

「…仕事……つらい…」と泣きながら言うのがやっとでした。

急な電話できっと驚いたと思います。

「看護師さんの仕事はつらいよな」とお母さんは言いました。

ただ、それだけで安心しました。

同期がいたから続けられた

新人の時は何か指導をうけたらすぐにメモ。メモ帳を肌身離さず持っていました。

同期のメモ帳の表紙に「あのえがおがムカツクーーーー」と殴り書きがしてありました。

もしかして…と思い「これって○○さん(苦手な先輩看護師)のこと?」と聞いたら「あーバレちゃったぁ?」と悪気なく笑顔。

私も思わず笑っちゃいました。

私が前にその先輩の指導で号泣したことエピソードを話すと、「分かるー!意地悪なんだよね、指導のやり方が」と同期のエピソードも聞きました。

先輩にそう思っていたのは自分だけじゃないんだ。気が楽になりました。

同期とよく集まって、先輩看護師や医者、患者さんのことをよく話しました。

同じ悩みを持っていたり、新たな発見があったり。

同期がいなかったら、1人だったら、続けることができなかったと思います。

初めての夜勤

6月の末から夜勤が始まりました。

勤務している病棟は2交代制。

日勤は8時半~17時15分。

夜勤は16時半~9時15分。

これはあくまで定時の時間で、前残業も後残業もしていました。

もちろんお金が支払われない残業、いわゆるサービス残業です。

サービス残業が当たり前の空気だったので、おかしいこととは思っていませんでした。

初めての夜勤、多くの患者さんを看るし情報収集のために早く病棟に行かなきゃ!と思い、15時前に病棟に着きました。

結果ズタボロ。

バイタルサイン測定、ご飯・内服した薬の確認、点滴、トイレの付き添い、おむつ交換と体位交換、吸引、口腔ケア。

日勤よりも格段に多い患者数で業務が多すぎ。キャパオーバー。そしてインシデント多発。

夜勤中はぐっと涙をこらえましたが、寮に戻るとプツンと緊張の糸が切れ、涙がどっとあふれてきました。

なんでこんなことしなきゃいけないんだろう。

なんで自分はできないんだろう。

でも夜勤をやりたくないなんて言えない。

日勤だけじゃなく夜勤もできるようにならないと看護師じゃない。

今までおかしいと思ったことでも上の人には意見を言ったことはなく、我慢をしてきました。

「自分が嫌と思っても言われたことは自分の課題、自分がやること」

それが当たり前だと思っていたので、どんなに苦しくても乗り越えないといけないと思っていました。

病棟勤務、続けられた理由と辞めたいと思ったとき、そして退職

つらすぎて泣いた新人看護師時代でしたが、それでも病棟での勤務を続けることができました。

病棟勤務で嬉しかったこと

つらかった病棟での勤務でしたが、嬉しかったこともあります。

治療は何回かのクールに分けてされます。

1クールは3週間~1ヶ月ほど入院となり、患者さんは1クール終わったら退院、2クール目の前に入院をしていました。

入院の度に関わるので、まるでお店の常連客のような顔なじみになります。

退院、入院の際に私の顔を見ると「またよろしくね!」と声をかけてくれると、患者さんに頼られているんだ、認められているんだと思い嬉しくなりました。

働きだした頃は安全に患者さんが過ごすことができるように、1日の決められたスケジュールをすることでいっぱいいっぱいでしたが

次第に業務を覚えて時間と気持ちにゆとりがでてくると、患者さんと病気や治療だけでない、他愛ない会話をするのも楽しくなっていました。

治療が一通り終わり、退院した患者さんが病棟に会いに来て元気な姿を見せてくれるのも、看護師として働く励みになりました。

どんどん自分のできること、任されることも増え、看護師にやりがいを感じていました。

その反面、ストレスも多く抱えるようになりました。

ストレス発散で飲み歩く&ショッピングする

新人の頃は帰宅する時間も遅く、パパっとご飯を食べて、お風呂に入って、明日担当する患者さんの病気や治療について調べたら布団に入るを繰り返す毎日。

他のことをするなんて考えられなかったのですが、2年目、3年目になると業務はできるようになるので時間に余裕ができるようになりました。

先輩看護師との人間関係や、病気を抱える患者さんを看ること、昼夜関係なく働き生活リズムも乱れてストレスもたまる日々。

病院という場所から離れて飲みに行くことがストレス発散になっていました。

そしてショッピングも大好きでした。

好きな洋服ブランドの新作が出ると買ったり、ボーナスが出た月は自分へのご褒美でブランドの財布やアクセサリーを買ったり。

その場その場をただ楽しむことがストレス発散になっていました。

看護師は一般的な平均年収よりもやや高い年収で、生活やお金には困ることはありませんでした。

辞めたいと思ったとき

6年半病棟で勤務していましたが、それまで「辞めたい」と思ったときは数えきれないほどありました。

人間関係が嫌だと思ったこともあったし、急変した患者さんを対応した日はずっと緊張しっぱなしで夜は心が落ち着かなくて眠れなかったし、患者さんから叱られた日はとてつもなく落ち込んだし、休憩時間もろくにとれずに夜勤をした日は朝方低血糖で手が震え「もうやだ」「辞めたい」と何度も心の中で思いました。

辞めたいと思った日があってもストレス発散に飲みに行ったり、買い物したり、一時的に楽しい時を過ごせばまた病院で働くことができていました。

それに「嫌なことでも我慢して続けること」が私の中に植え付けられていたので自分なりに続けることができていたんだと思います。

そして我慢して働き続けていたら嫌な先輩看護師はいなくなり、自分にとって働きやすい環境になっていきました。

辞めたいと思っても「転職した先が嫌な環境かもしれない、何年も我慢してきたんだ、やっと働きやすい環境になってきたところだからこのまま続けよう」と転職するよりもそのまま続けることを優先していました。

自分が経験年数の長い看護師に

病棟の看護師はライフイベントや転職、看護職から離れて休みたい人など、数年での入れ替わりが当たり前でした。

苦手な先輩看護師も産休、退職や異動などでいなくなっていきました。

いつの間にか自分が病棟の中で経験年数が長い看護師になり、新人看護師の相談役や、教育係をするようになりました。

自分が先輩看護師にされて嫌だったことはしたくないと思いながら過ごしていたのですが、

ある時新人看護師に「優しくて働きやすいです!」と言われたときはとても嬉しかったです。

病棟が良い雰囲気になって良かったと感じました。

そして訪れた退職

私は結婚をしてからも同じ病棟で働き続けていたのですが、転機が訪れました。

それは旦那の転勤です。

転勤が決まった時は「新しい環境で家族も友達も遠い…」と不安もありましたが、それを大きく上回ったのが

「やっと辞められる!!!」という開放感でした。

何度も辞めようと思った、それでも環境を変えるのが怖くて辞められなかった。

自分の居場所はここだと言い聞かせていましたが、

これで自由になれるんだ。もう頑張ってここで働かなくて良いんだ。

と思うと、先の見えなかった暗闇に光が差したような気持ちになりました。

人生体験ストーリー続きの第2話はこちら。

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